経営者兼パラアスリート、官野一彦が心を燃やす次世代への恩送り

経営者兼パラアスリート、官野一彦が心を燃やす次世代への恩送り

車椅子ラグビーは車椅子競技で唯一のフルコンタクトスポーツ。2012年ロンドンパラリンピック、2016年リオデジャネイロパラリンピックで日本車椅子ラグビーを牽引したのが官野一彦(かんのかずひこ)選手だ。どんなに苦しい場面でも、何度も心を燃やし続ける生き方が勇気を与える。その軌跡と展望に迫った。

巨人ドラフト1位入団を夢見る野球少年

コンパスだけで似顔絵を描けるような、丸々とした子どもでした。将来の夢はプロ野球選手。小学校の卒業文集に「強豪高校に特待生で入って、早稲田大学へ進学する。巨人にドラフト1位で入団して38歳で引退」と書いていました。一つ一つに目標を立て、それに向かっていくのが当時から好きだったんです。親に無理を言ってリトルシニアに行くくらい野球に熱中していました。

ただ僕はそんなに野球がうまくありませんでした。中学生でもホームランをぽんぽんと打つ、僕より上手い選手は周りにいたんです。彼らに勝つため、とにかく相手の選手が嫌がることを研究していました。だから、性格もひん曲がっちゃったんですけど(笑)人と違うことをしようといつも考えていました。

中学3年生の夏休みには、2校から特待生のオファーをもらえました。1校は文集に書いていた高校、もう1校が木更津総合高校でした。強豪高校に行きたかったんですが、他に候補者が見つかったんでしょう。ぱったりと来なくなりました。一方、木更津総合高校の先生は毎日自宅に来てくれていましたから、そちらに進学を決めたんです。正直、悔しさもありましたが「見返してやりたい!」という反骨心がこの時に身につきましたね。

高校では部員120名の中で1年生からレギュラーに選ばれました。レギュラー争いは厳しいものです。3年生までずっとレギュラーでしたが、周りから「コイツがいなかったら試合出れるのにな」と思われているのではないかと疑心暗鬼になりました。ついにはボールが飛んできても動けない、イップス(※)になってレギュラーを外されました。でも、悔しさよりホッとしたんです。その時に「ああ、野球人生は終わったな」と思いましたね。ただ、3年間最後までチームのためにがんばろうと、毎日1,000本近く素振りをしてバッティングで貢献し続けました。これは今でも僕の誇りです。

※精神的な原因でこれまでできていた体の動作ができなくなること。スポーツ選手や楽器演奏者などに現れやすい。

悲しむ息子を母親はケラケラ笑いながら、バンバン叩いた

悲しむ息子を母親はケラケラ笑いながら、バンバン叩いた
野球の次に熱中したのがサーフィンでした。ぶっちゃけ、モテたかったんですよね(笑)サーフィンはプロでさえ2時間海に入っても、波に乗れるのはわずか数分なんです。練習もなかなかできず、上達しにくい。そこにかえってハマりました。
20〜21歳の頃は、年間で360日くらい海に入っていましたね。22歳でスポンサーまでついて、天狗になっていたんでしょう。ちょうどその時、事故に遭いました。

サーフィン中、頭から海底にぶつかって、首の骨が折れたんです。正座をすると足が痺れますが、それが首を折った瞬間にほぼ全身にきてしまう感覚でした。救急車ですぐに運ばれ、医者から「官野さん、歩けなくなりました」と言われました。ピンとこなくて「あ、そうですか」と返したのを今でも覚えています。キツいリハビリを耐えたら歩けるだろう。地獄の練習を耐えてきた自分ならできる、と。しかし脊髄を損傷したことで四肢が麻痺し、握力すらも失いました。

病院には看護学校が併設されていて、若い女性の看護師がいました。22歳の男なので、かわいいなと(笑)でも、体を動かせないから彼女にオムツをつけられたんです。自尊心というか、人間として生活していく権利を剥奪された気がしました。この先、俺どうなっちゃうんだろう。不安はだんだん悲しみ・怒りになり、泣いて暴れて、最終的には「こんな生活をするくらいなら、マジで死にたい」とさえ思いました。

入院生活を支えてくれたのは、同じく看護師だった母親です。個室に寝泊りしながら、看病してくれました。僕が泣いていると「なに泣いてんのよー」とケラケラ笑いながら、バンバンと叩いてくる。「どんだけ空気読めないんだよ」とイラつきました。
事故から5日目、真夜中に目を覚ますと、部屋の奥からグスングスンとすすり泣く声が聞こえてくる。僕は起き上がれないので見えませんが、明らかに母親が泣いていました。

その瞬間、いろんなことがフラッシュバックしました。息子が歩けなくなって悲しまない親なんていません。きっと息子と一緒に泣いてしまったら、余計に息子がツラくなる。だから無理して明るく振る舞ってくれていたんだ。
「母さん、ごめんなさい。自分のことしか考えていなかった。母さんを泣かしたくない」。その日を境に覚悟を決めました。「なんとかするしかない。前に進もう。でも何をしたらいい?」まずはリハビリから始めることにしました。

翌日、先生にリハビリを頼むと「まずベットを動かして上半身を起こそう」と言われました。筋トレをイメージしていましたから、ふざけているのかと思いました。見てろよ、と。でも、ベッドをたった20度起こしただけで気絶しちゃったんです。実は脊髄損傷で血圧のコントロールができなくなっていた。だから、かわいい看護師に囲まれ、毎回気絶するのがリハビリのスタートでしたね(笑)

1つだけ決めていたのは、いつ何時もリハビリをサボらないこと。お先真っ暗でしたが、リハビリを続けることでしか自分を奮い立たせられなかったんです。苦しくないと自分が生きている心地がしなかった。プレッシャーをかけ続けることで「この先も人間として生きていきたい」と思う、心の炎を消したくなかったんです。

その後、親元を離れて埼玉県所沢市の「国立障害者リハビリテーションセンター病院」に転院しました。体育館や自動車学校まで併設されている、脊髄損傷の専門と言っていいくらいの病院です。ここでは毎朝5時半に起きて、朝食前にグラウンドを車椅子で走っていた。それが今病院の伝説になっていて(笑)あほなやつがいた、と。当時から「パラリンピックに出る」と思っていましたね。

夢を夢のままで終わらせない秘訣

夢を夢のままで終わらせない秘訣
退院後、車椅子ラグビーの存在を知ってすぐに始めました。車椅子ラグビーは唯一、車椅子同士の激しいぶつかり合いを認められたフルコンタクトスポーツです。障害が重くてもバッコーンとぶつかって、相手をひっくり返したら褒められる。しかも競技用の車椅子は、新車一台くらいの値段がするのに。バカじゃないかと(笑)

もう1つ魅力に感じたのは、コート上の自由です。もしあなたの目の前で障害者がスマホを落としたら、どうしますか? 多くの人は手を貸してくれるでしょう。とても有難いことなんですが、自分でも拾えるんです。そんなつもりはなくても、どこか「障害者の自分」を突きつけられているような感覚がありました。しかし、コート上では誰も僕を守ってくれません。その自由が心地良かったんです。

車椅子ラグビーは、野球と同じで相手が嫌がることをするといいスポーツなんですよ。海外ではこれを「スマート(頭がいい)」と言って評価する。相手にいいポジションを取らせない、当たらせない。ズルいことを車椅子ラグビーでもやっていた。スポーツセンスからコート上の選手の動きも手に取るようにわかり、2006年から1年で日本代表に入ることができました。

しかし、2010年には日本代表から外されたんです。自分は天才、と思って練習しなかったから。タバコも吸って、酒も飲んで、練習もろくにしていない。もはやアスリートではありませんでした。年下や年数の浅い選手に抜かされ、ふてくされていました。
でもトレーナー達から事あるごとにトレーニングの相談をされたんです。彼らは単に仕事でしていたかもしれませんが「お前、こんなもんじゃないだろう?」と言われている気がしました。だとしたら今の態度はかなりダサいな、と。

そんなタイミングで出会ったのが、スポーツメンタルを担当していた日本大学の橋口泰一先生です。個別にこんなことを聞かれました。

「官野さん、あなたの夢はなんですか?」
「ロンドンパラリンピックに出ることです」
「そうですか。その夢は叶いますか?」

言葉に詰まりました。夢は叶えるのが難しいから夢。すぐ、はい!と言える人はそういません。先生は続けました。

「夢は絶対に叶いません。ただ、夢を目標に変えることで目標を達成するために自分が何をすべきか、何が足りないかを考えるようになるんです」

衝撃的でした。僕は夢を口にしていましたが、具体的なアプローチを考えて行動していなかったんです。

「官野さん、ゴールを決めましょう。ロンドンパラリンピック出場を2年後のゴールとして、1年後には何を達成していないといけないですか?」
「予選を突破しなければなりません」
「それを達成するには?」
「そもそも日本代表に復帰していないと」
「復帰するために3ヶ月後には何を? 1ヶ月後、1週間後、明日はどうでしょう?」

つまり、目標から逆算して計画を立てるんです。さらに弱点を克服するための計画も練りました。10キロ減量するために毎月1キロずつ痩せたり、スピードの遅さをカバーするために毎日10キロ走ったり、一つ一つクリアしていったんです。

すると翌年には日本代表に復帰し、予選も突破でき、ロンドン大会出場を果たしました。夢を叶えることができて、「メダルを取る」というワンランク上の目標に切り替えられたんです。この経験からはダメなところを認める勇気を学びましたね。

代表チームの真価を発揮したリオデジャネイロ大会

代表チームの真価を発揮したリオデジャネイロ大会
残念ながらロンドン大会は4位に終わりました。おまけに、負けてうなだれている姿をメディアに撮られて、悔しい思いをしたんです。「リオデジャネイロでは、こうならないようにしよう」とチームメイトと約束し、金メダルに向けて4年間準備しました。

チーム作りで最も難しいことは、モチベーションの違いです。日本代表チームであっても、スタメンと補欠ではモチベーションに少なからず差が出てきます。チームがバラバラで違う方向を向いていては目標を達成するのは本当に難しい。そこを乗り越えていったのがリオデジャネイロパラリンピックです。

2015年の予選ではなんと世界ランキング1位のオーストラリアに勝つことができたんです。その後も2位のアメリカと僅差。チームには「金メダルを取れるぞ」という雰囲気がありました。
しかし、いざ準決勝でオーストラリアとぶつかると、彼らはしっかり対策をしてきてコールド負け。その瞬間、金メダルの可能性はゼロになりました。

試合が終わって夜中12時近くに選手村まで戻ると、チームの雰囲気は恐ろしいくらい最悪でした。3位決定戦は翌日9時開始、早く寝なきゃならない。しかしチームミーティングでは、誰も口を開かずどんよりとしていました。
ようやく口を開いたのが池崎さん。「もう終わった」と。池崎さんに悪気があったのではなく、エースとしてチームを勝たせられなかった責任から出た言葉かもしれません。

僕はショックで、思わず涙ながらに訴えました。
「ちょっと待ってください。またロンドンみたいに何もなく帰るんですか。メダルを取って帰った選手たちが空港で取材を受けていて、僕らはその横をすみません、すみませんってみっともなく出てったじゃないですか。またあれになるんですか? 僕はどうしてもメダルが欲しい。空港で二度とあんな悔しい思いはしたくない。メダルが欲しいです」と。
そしたら12人のチーム全員が泣き始めて。でも、みんなが同じことを思ったんでしょう。金メダルは取れないかもしれないけど、今自分たちができる最高の結果は銅メダルを取ること。だから、まだ終わっていない。

翌朝、不思議なことが起こったんです。ロッカールームに入った瞬間に「あ、今日勝てるわ」と確信しました。うまく言い表せられませんが、おそらくスタッフ含め選手全員が完全に同じところを向いていたんです。メダルを取ることを誰一人疑っていませんでした。
相手チームは相性の悪いなカナダ。でもチーム全員がチームのために今できることをしよう、と考えていました。チーム全員が一体となって、集大成を発揮することができたんです。結果、2点差で勝って銅メダルを取れました。

すごい、最高でした。言葉が出ないくらい。あの時死ななくて、生きていて良かった。努力が実ることがこんなに幸せなんだなって。今でも忘れられない経験ですね。

次世代パラアスリートに向けた恩送り

次世代パラアスリートに向けた恩送り
14年間続けた車椅子ラグビーは昨年引退し、パラサイクリングで2024年のパリ大会を目指しています。パラアスリートとしてこれまでたくさんの方に支えてもらってきました。これからも競技人生をサポートしてもらうことになります。だから、僕はこの先彼らに喜んでもらえることをしていこうと思いました。これまで受けた恩を、今度は送る番だと。

自分にできることを考えて思いついたのが、障害者専用のアスリートジムです。一般のジムでは使える器具・マシーンに制限があったり、コロナ禍でパラアスリートのトレーニング環境も限られている。そこで千葉にジムを作ることにしました。世界トップクラスの選手から若手選手が知識や技術、モチベーションを学べるような場にしていきます。ここから次世代を担うパラアスリートを育てていきたいですね。

次世代パラアスリートに向けた恩送り2
少ない人数ですが、若い人から年配の方まで幅広い年代が通ってくれています。ある50代の男性は片麻痺で運動をしたことがなく、「この先奥さんに迷惑をかけないように」と体を鍛え始めました。しかし一般のジムではまともに鍛えられず、見つけてくれたのがうちのジムだったんです。まさにこういう人のためにやりたかったんだ、と本当に嬉しかったですね。

事業はまだまだ赤字で厳しい状況です。経営者としては事業が足かせになるなら、本来切らなきゃダメなんですが、これは僕の志なので。煉獄さん風に言うと「心を燃やしている」ので、ここを譲るわけにはいきません。何年かけてでも、トントンになるよう動いていけたらと思っています。

文=岡田基

官野一彦
1981年生まれ。実業家、パラアスリート。22歳でサーフィン中の事故で脊髄を損傷し、車椅子生活となる。2006年に車椅子ラグビーを始めると1年で日本代表に選出される。2016年リオデジャネイロパラリンピックで日本初の銅メダルを獲得。2018年世界選手権で優勝。2020年にパラサイクリングに転向し、パリパラリンピックを目指す。一方でTAG CYCLE株式会社を創業し、千葉に障害者アスリート専用ジムを設立した。工務店向けITサービスを展開する「エニワン株式会社」の顧問として、障害者向け住宅のコンサルティングも行う。

福祉住宅に関するご相談は、Twitter(@kanno_tagcycle)へご連絡ください。

岡田基
2015年、自著出版をきっかけにフリーライターとして活動を始める。取材や編集、ディレクションに携わる。東京で7年活動した後、沖縄へ移住。

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